マリアランド

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15 岩石(ハンドルネーム TSHCGj9i 返信

 日本人に4割いるコーカソイドで天然パーマのハプログループD(Y染色体)は旧石器時代に黒海北岸から東進していたが、西シベリアでハプログループR(Y染色体)と一緒に暮らしていたため、同じコーカソイドになった。この頃のハプログループR(Y染色体)は金髪碧眼ではなかった。ネアンデルタール人から金髪碧眼を受け継いだ先住日本人ハプログループN(Y染色体)は新石器時代に遼河、西アジアを経て西シベリアでハプログループR(Y染色体)と一緒に暮らしたため、ハプログループR(Y染色体)も金髪碧眼(金髪と青い瞳)になった。ハプログループN(Y染色体)は北欧のフィンランドに到達し、フィンランド人になった。日本では天然パーマ・コーカソイドの地中海沿岸系日本人と金髪碧眼(金髪と青い瞳)の匈奴系日本人は別の人種だが、ハプログループR(Y染色体)はハプログループD(Y染色体)の天然パーマ・コーカソイド、ハプログループN(Y染色体)の金髪碧眼(金髪と青い瞳)の両方を受け継いでいる。ヨーロッパ人の天然パーマ・コーカソイド、金髪碧眼(金髪と青い瞳)は先住ヨーロッパ人=日本人の先祖と先住日本人に由来している。
 熊襲の例(欧米人顔、天然パーマ)、ハプログループDはアイヌ、関東、沖縄、太平洋沿岸、日本海沿岸、東シナ海沿岸で多い。日本人の7~8割が天然パーマか癖毛。私の母はフランス人顔の天然パーマだった。私と兄は大人になると、癖毛になり、禿げた。また、私の兄はイタリア人と同じ顔、私と私の父はロシア人と同じ顔です。同じ縄文系とは言っても、南九州の熊襲(くまそ)と東北の蝦夷(えみし)は身体的特徴がまったく違う。奈良県や静岡県や青森県のタタール人もまったく違う。本来の東北の蝦夷(えみし)は昔は金髪碧眼の日本人顔の人たちだった。小学校の同級生に明るい青い瞳や明るい金髪の友人が2人いた。ロシア人ではない。劇団桟敷童子の公演を見に行く途中、総武線で日本人なのに金髪の母親と2人の男児が乗ってきた。フィンランド人はどうみても金髪碧眼の日本人のおねいちゃんやおばちゃんと変わらない。ハプログループN(Y染色体)の蝦夷(えみし)は日本先住民で、北欧のフィンランド人とルーツは同じです。ルーマニアでラテン語を話していたヨーロッパ先住民・地中沿岸系日本人の先祖は、黒海北岸(ルーマニアはラテン系、ウクライナとモルドバはスラブ系)から東進する途中のバイカル湖畔でブリヤ―ト人、アムール川でタタール人、沿海州でウリチなどを拾った。タタール人には金髪碧眼の人もいます。ロシアはモンゴル帝国時代からタタール人に支配され、タタールの頸木と呼ばれていた。ロシアのフィギュアスケート選手ザギトワはタタール人なので、日本人に顔が似ています。

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14 岩石(ハンドルネーム xDAytOEw 返信

 ハプログループN(日本では蝦夷=東北に比較的多い)は日本に満遍なくいる。フィンランド、バルト3国、北アジア(ウラル・西シベリア・極東)に多く、ウラル語族である。ブリヤ―ト人(C260.5%、N30.9%、O22.5%、R3.7%)、モンゴル人(C252.3%、D1a12.6%、NO0.7%、N8.0%、O1a10.7%、O1b*1.3%、O3=新基準O222.8%、Q2.7%、R4.0%)、ロシア人はR(R1a46.7%、R1b5.8%)、N(21.6%)、I(17.6%)。ウクライナ人はR(R1a43.2%、R1b7.9%)、I(27.2%)、E(E1b1b7.4%)(日本人のハプログループDと兄弟)、N(5.4%)。ハプログループCは日本に満遍なくいる。中央アジア・モンゴル・満州・沿海州に多く、アルタイ諸語である。トルコもアルタイ諸語だが、現在はトルコ(A型34%~R1b=14.7%、R1a=6.9%、G=10.9%~O型43%~E1b1b=10.7%、J1=9%、J2=24%~、B型18%、AB型6%)となっている。日本人の4割にハプログループD(Eから分離した)がおり、アイヌ、関東、日本海沿岸、太平洋沿岸、東シナ海沿岸、沖縄では5割以上いる。ハプログループD=血液型A型は日本やチベットやブータンに多い。プリヤ―トで日本人とモンゴル人が分かれた。チュルク系のウィグルも日本人と親戚関係にある。ハプログループOは中国、東南アジア、日本、朝鮮に多い。日本人と近親関係にある中国とロシアは日本人と近親関係にある民族に囲まれている。
 ヨーロッパから広がったネアンデルタール人は日本にも旧石器時代中期の12万年以上前から住んでいた。ネアンデルタール人は旧石器時代の石器の作製技術を有し、火を積極的に使用していた。ヨーロッパのホモ・サピエンスはネアンデルタール人を絶滅させたが、日本ではネアンデルタール人と共生していた。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は交配していた。ヨーロッパの白人にはネアンデルタール人のY染色体遺伝子が含まれていないが、日本人にはネアンデルタール人のY染色体遺伝子が少し残っている。つまり、日本では緩やかに混血して共生していた。ネアンデルタール人は、北方の気候に適応して、①現在のヨーロッパ人以上に白い肌、②金色や赤い色の毛、③青い目や灰色の目、となる。青い瞳等は、ネアンデルタール人→最初の日本人(ハプログループN)→北東亜平野(現在は大陸棚となっている東シナ海や黄海や志那大陸の東沿岸及び台湾や沖縄や日本列島は陸続きだった。瀬戸内海も陸地でナウマンゾウが住んでいたが、1万年前に海水が流れ込んだ)で匈奴(ハプログループN)→西シベリアでヨーロッパ人の先祖(ハプログループR)と受け継がれていった。
 明るい色彩の目や髪はハプログループNの割合が大きいサーミ人(ノルウェー)とフィン人 (フィンランド)に特に多い。サーミ人やフィン人は銀髪だが、匈奴系日本人(ハプログループN)には顔が白く金髪がかった銀髪の者や青い瞳に近い者もいる。特に東北には顔が真っ白で、青い瞳(劣性遺伝)や金髪の者がいる。九州北部や中部以北にもそれに近い者がいる。
 毛人・地中海沿岸系ヨーロッパ人(ハプログループD)が日本列島まで東進し、金髪碧眼・遼河系匈奴や遼河系先住日本人=蝦夷(ハプログループN)が北欧まで西進した。
 原日本人(ハプログループD)は黒海北岸のルーマニア(ロマンス諸語)から来たが、そのルーマニアは現在、スラブ系に囲まれている。スラブ人にはハプログループR1a とNが必ずある。西スラブ人はポーランド人、スロバキア人、チェコ人等、東スラブ人はロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人、南スラブ人はスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人、マケドニア人等である。一方、スラブ系のロシア人は遼河系先住日本人と同じ遼河系匈奴(ハプログループN、ウラル・アルタイ語族)に囲まれている。ロマンス諸語はハプログループEがいるイタリア、フランス、スペイン、ポルトガルで使われている。ただし、ハプログループEがいるウクライナ人はスラブ諸語である。ハプログループD(YAP+)はハプログループE(YAP-)から分かれた。

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13 岩石(ハンドルネーム LFgQtMPV 返信

 平安時代、東北地方の先住日本人である蝦夷(えみし)は金髪碧眼で、身長が高かった。日本の縄文時代の蝦夷(えみし)は現在のフィンランド人のルーツに当たります。日本は紀元後4世紀頃に朝鮮南部に新羅・百済・高句麗を統治する総督府を設けていた。日本の奈良時代に山岳地帯で非常に貧乏な新羅(しらぎ=南朝鮮東部、その国王日本人だった)が唐と連合して平地の多い挑戦でき比較的裕福な百済(くだら=南朝鮮西部)を滅ぼした。その時、百済の人間がかなり日本に逃げてきて、日本の関西地方に住んだ。その後、新羅は高句麗(こうくり=現在の北朝鮮と満州=中国東北部)を滅ぼした。高句麗の人間がかなり日本に逃げて来て、日本の関東地方に住んだ。高句麗の人間は身長が高かった。その後、朝鮮は志那王朝の属国になっていった。朝鮮は明治になって日本の統治に復帰した。長江(中国中部・南部)から日本に逃げて来た人たちは身長が低かったが、蝦夷や高句麗人は身長が高かった。戦国時代にも、身長2m近い者や180cmの戦国武将もいた。同じ日本人でも身長の低い人もいれば、身長の高い人もいるのは昔からだった。
 1万2000前に匈奴(ハプログループN)が朝鮮半島の木を燃やし尽くしたため、朝鮮半島は禿山になった。このため、この匈奴は北アジア一帯やウラル地域に移動した。朝鮮半島では草が生え始めてから5000年経ってやっと森林が復活した。この間、人間は住んでいなかった。7300年前に喜界島が超巨大噴火を起こし、近くの九州南部の薩摩半島・大隅半島・屋久島・種子島等の縄文人が絶滅した。日本全国に灰が積もったため、7000年前に朝鮮半島に縄文人が渡り始め、朝鮮語は縄文語から分かれた。神武東征後、2500年前に日本から南朝鮮に稲作・古墳が伝わった。日本列島の縄文人が朝鮮半島に進出し、開拓していった。また、環太平洋一帯に広がった縄文文明人は黄河文明(6800年前)やインカ文明も築いた。
 旧唐書によると、倭国は北九州と朝鮮のことで、日本国(南九州が大和で樹立した政権)とは別である。日本国が倭国を吸収した。志那からの疫病が朝鮮を経由して日本で蔓延したことから、大和朝廷は大宰府で徹底的に検疫した。志那からの疫病に対する防波堤として、三韓(新羅、百済、高句麗)という自治政府を置き、日本国の配下においた。三韓(新羅、百済、高句麗)のうち新羅が反乱を起こしたので、神功皇后が三韓征伐(主に新羅成敗)を行った。
 新羅の建国時の宰相が日本人であり、王家の二つが日本人であり、始祖の朴赫居世についても日本人説がある。新羅16代の王のうち半数が日本人であった。百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあった。大和朝廷による任那(伽耶)地域の支配があった(半島南部における多数の前方後円墳の存在)。日本が白村江の戦で唐・新羅連合軍に負ける7世紀まで朝鮮は日本の一部だった。帰化人とは朝鮮半島に住んでいた日本人のことである。新羅が日本を裏切ってからの朝鮮は悲惨な運命をたどった。新羅は百済や高句麗まで不幸にしてしまった。北朝鮮東部に住んでいた穢(ワイ)族と手を組んだ高句麗=満洲に住んでいたツングース系のジュルチン(女真族)、モンゴル帝国(元)、華北の旧漢民族による侵略に晒されたりしたことによって変遷・形成されていったのが朝鮮民族である。朝鮮人は遺伝的にはエベンキ(C2、N、Q等)やウリチ(C1a1)と関係がなく、東南アジア人に近く、それに穢(ワイ)族やモンゴル人の遺伝子が加わっている。日本人が開拓すると、女真族や漢族がやって来て侵略するのは、近代の満州国と同じである。日本が朝鮮人による請願に応えて併合してやり、朝鮮人がまともな生活ができるようにしてやったのに、またしても日本を裏切った。 

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12 岩石(ハンドルネーム p1luW32B 返信

 元軍が最初に博多に姿を現すのは6月初め。そこから志賀島に上陸し、7月初めまで湾内の戦いが続きます。そして1ヶ月以上戦った後、元軍は船に押し込められたまま台風に遭遇。つまり台風の前に元軍は負けているのです。またモンゴル軍というと騎馬兵のイメージがありますが、水や飼葉のことを考えると、当時の技術で人数分の馬を海上輸送するのは不可能です。結果、彼らのほとんど(もしくは全員)は歩兵でした。
 元軍は、日本の前に南宋を滅ぼしています。この南宋と幕府はかつて同盟関係にあり、北条時宗は南宋からの亡命者や貿易商人を厚め、逐一情報を得ていました。そのため元軍到着前には上陸地点を正確に予想しており、要塞を築いて全国から御家人の集結も完了済でした。当時は座礁リスクもあり、小舟で分乗して来るしかありません。すなわち兵力が分散しますので、幕府側は陸地で待ち構えて各個撃破すれば良し。
 対峙する日本軍の数は6万人ほど。更に東国から援軍が続々と出陣していたが、彼らが到着する前に元軍は引き上げていた。ただし、当時の武士は「弓馬の芸」というくらいで、主な武器は騎乗しての弓矢でした。ヨーロッパのロングボウが大きいもので2メートルほど。対して武士の和弓は、定寸が7尺5寸(約2.3メートル)。さらに和弓は両面を削った木に、炭化させた2枚の竹を合わせて靭性を確保し、強い攻撃力を誇りました。源為朝は8尺5寸、8人張り(7人で弓を曲げて1人が弦をかける)の強弓を用い、一矢で大鎧武者を3人貫通したといいます。これは例外としても、5人張りくらいは普通に存在したようです。で、そんな長弓を馬上であやつるには、数年におよぶ訓練が必要です。つまり大の男にそんな訓練をゆるす社会でなければなりません。
 この頃、世界のほとんどの国では、騎兵なんて全軍の5%もいませんでした。ほとんどが歩兵。ヨーロッパなどは騎兵、歩兵、弓兵と専門分化するのが当たり前で、たとえば槍兵が援護しつつ弓兵で攻撃。続いて歩兵の突撃、といった感じです。騎兵は虎の子であり、神速の機動力で最前線を突破する、または後方の歩兵補助に用います。そんな騎兵を大量に擁したところにモンゴル帝国の強さがあったのですが、対日本ではこれの真逆の状況に置かれました。何せ鎌倉武士は、なんでもできるオールマイティな集団です。和弓の長距離攻撃、騎乗の機動力、さらに重装備の防御を兼ね備えた「重装長弓騎兵」といったところですが、さらに太刀や槍もお手の物。アウェイだった元軍にしてみれば、敵の日本軍は地形を熟知しつつ、アウトレンジで機動攻撃をしかけてくる。やっと近接戦に持ち込んだと思ったら、白兵戦の練度も高い。
 ですから記事にあるように「元軍側のミスが敗因」というのは厳しい見方でしょう。地の利を活かしつつ、練度の高い戦力を数万規模で動員してくる国に出会ったのは、おそらく日本が初めてだったはずです。日本の武士がいちいち名乗りを上げたというのも誤解で、名乗りは敵ではなく味方に対して「オレの手柄だってこと、みんな見てくれよな」という意味で行うものでした。日本が神風で偶然勝った、なんていうのは当時戦った人々への冒涜。戦う前にやるべきことを正しく行い、勝つべくして勝った。それが元寇です。

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11 岩石(ハンドルネーム 0PfmTVy2 返信

 先住日本人の蝦夷=フィンランド人が金髪碧眼で弓騎兵だったので、大和朝廷側もこれに対抗するため、旧騎兵とせざるを得ず、日本の重装長弓騎兵はモンゴル帝国の襲来で大活躍した。日本人の中にもフィンランド人と同じ金髪碧眼の者がたまにいる。私の友人はフィンランド人並みの金髪の者や青い目の者がいた。フィンランド人を見ると、その友人を思い出します。
 大和朝廷は財政難から軍備縮小するために少数精鋭の健児の制を設けた。健児とは庶民出身の軍団の兵士とは別に選抜された郡司らの子弟から成る。唐制を参考にして733年精鋭300人を指名、738年に廃止したが、762年に再置した。軍団の兵士は弓馬の心得あるものが少なく、792年に辺境のほかは軍団を全廃し、質の向上を図るため、健児を正規の兵制とした。蝦夷が軽装甲の弓騎兵で構成された騎兵であったため、これに苦汁をなめさせられた。これに対抗するために健児を重装長弓騎兵にせざるを得なかった。この健児が廃止されてからも、各地の有力豪族は健児を基礎とした重装長弓騎兵である武士を召し抱えていった。元寇ではこの重装長弓騎兵である武士が大活躍した。
 8世紀の中葉は鎮守府の鎮兵で対応できた蝦夷の状況も、780(宝亀11)年の伊治呰麻呂の乱を契機に始まった蝦夷(=匈奴系日本人)の大規模な反乱で大きく変わることになった。それまでとはけた違いの軍隊が動員されたが、それでも蝦夷の頑強な抵抗を受けて大きな損害を被るということもあった。問題のリード文にもあるように「続日本記」の783(延暦2)年6月6日には「坂東の諸国、軍役有るに属きて、毎に多くは尩弱にして全く戦ふに堪へず。即ち、雑色の輩、浮宕の類有りて、或いは弓馬に便あり、或は戦陣に堪ふ。徴し発つること有る毎に嘗て差点せずと聞く。(中略)坂東の八国に仰せて、有らゆる散位の子、郡司の子弟と、浮宕らの類との身軍士に堪ふる者、国の大小に随ひて、一千已下、五百已上を簡び取るべし」とある。坂東(=毛人=地中海沿岸系日本人)から集めた兵士が弱いので、これからは地方有力者の子弟から成る軍を用意しなさいと記されている。その中に「弓馬に便」とあることにも着目したい。騎兵が期待されているということである。軍防令2には「凡そ兵士は、各隊伍為れ。弓馬に便ならむ者をば、騎兵隊と為よ。余をば歩兵隊と為よ。」とあるから、律令制度下にも騎兵隊があったことは明らかであり、その騎兵隊を構成し乃は、おそらくは地方豪族の子弟であっただろう。軍団の兵士は渡海して戦うことを前提にしているので、主に歩兵である。蝦夷との戦いでは渡海は前提にしないし、何よりも蝦夷が優秀な騎兵であった。これと戦うためには朝廷の軍も騎兵化する必要があった。これを「辺要の地」すなわち大陸に備える西海道諸国と、辺境の陸奥・出羽・佐渡を除いて一般化したのが792(延暦11)年の健児の採用である。 

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10 岩石(ハンドルネーム wk2jminb 返信

 建国の詔の原文
 三月辛酉朔丁卯。下令曰。自我東征於茲六年矣。賴以皇天之威。凶徒就戮。雖邊土未淸。餘妖尙梗。而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都規大壯。而今運屬此屯蒙。民心朴素。巢棲穴住。習俗惟常。夫大人立制。義必隨時。苟有利民。何妨聖造。且當披拂山林。經營宮室。而恭臨寶位。以鎭元元。上則答乾靈授國之德。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇不亦可乎。觀夫畝傍山〈畝傍山。此云宇禰縻夜摩。〉東南橿原地者。蓋國之墺區乎。可治之。

 三月(やよひ)、かのとのとりの朔、ひのとのうの日、令(のり)を下してのたまはく、我東(ひがし)を征(うち)しより、こゝに六年(むとせ)なり。皇天(あめのかみ)のみいきほひをかうふりて、凶徒(あだ)ころされぬ。邊土(ほとりのくに)いまだしつまらず、餘妖(のこりのわざはひ)なほ梗(あれ)たりといへども、中洲(うちつくに)の地(ところ)また風塵(さはぎ)なし。まことによろしく皇都(みやこ)をひろめひらき大壯(みあらか)をはかりつくるべし。しかるにいま、運(とき)此屯蒙(わかくくらき)にあひ、民(おほみたから)のこゝろ朴素(すなほ)なり。巣(す)にすみ穴(あな)にすむ、すむしわざ、これ常となれり。かの大人制義(ひじりのりのことはり)をたつ、かならず時のまにへいやしくも、民(おほみたから)に利(くぼさ)あり、なんぞ聖造(ひじりのわざ)にたがはん。且まさに山林をひらきはらひ、宮室(おほみや)ををさめつくりて、つゝしんで寶位(たかみくらゐ)にのぞむべし、もて元々(おほみたから)をしづむべし。上はすなはち乾靈(あめのかみ)、國をさづけ給ふ徳(うつくしみ)にこたへ、下はすなはち皇孫正(すめみまたたゞしき)をやしなひ給し心(みこゞろ)をひろめん、しかうしてのちに、六合(くにのうち)をかねてもて、都をひらき八紘(あめのした)をおほひて、宇(いへ)とせんことよからざらんや。みれば、かの畝傍山(うねびやま)の東南(たつみ)のすみ橿原(かしはら)の地(ところ)は、けだし國の墺區(もなか)か、みやこつくるべし。
 日本国は、古代に山陰地方から関東地方にかけて住んでいた毛人(もうじん)=地中海沿岸系日本人、倭国及び高句麗を服属させた。大和朝廷は鉄を産出する出雲を皇太子が侵略したが、それを正当化するために国譲り伝説を作った。魏・呉・蜀の三国時代、高句麗は蛮族=盗賊団が跋扈し、南朝鮮の馬韓、弁韓、辰韓は争いが絶えず、国のていをなしていなかった。日本だけが国としてまとまっていた。志那からの疫病が朝鮮を経由して日本で蔓延したことから、大和朝廷は大宰府で徹底的に検疫した。志那からの疫病に対する防波堤として、三韓(新羅、百済、高句麗)という自治政府を作らせ、日本国の配下においた。三韓(新羅、百済、高句麗)のうち新羅が反乱を起こしたので、2世紀ごろ、神功皇后が三韓征伐(主に新羅成敗)を行った。魏はこれを称して倭国(朝鮮南部と九州北部)大乱と呼んだ。平安時代に東北の蝦夷=匈奴、明治以降に北海道のアイヌ=地中海沿岸系日本人等を服属させた。

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9 岩石(ハンドルネーム LWvHApR6 返信

 旧唐書「倭国日本伝」には「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす」「あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。北朝鮮は糞まみれの穢族と呼ばれる人たちが住んでおり、南朝鮮と北九州に倭国があり、近畿に日本国があるとされている。ちなみに、志那は「南朝鮮の倭寇が一番質が悪かった」とその歴史書に書ている。倭人は中国東沿岸地域、朝鮮、日本に広がっていた。また、倭人は更に遡ること十世紀、インドに住んでおり、隼人族をタミル人とする説もある。ドラヴィダ人はアーリア人とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く背が低いが手足が長い、ウェーブがかった髪などの特徴がある。ドラヴィダ人のY染色体ハプログループは他のインドの民族同様、様々なタイプがみられる。インドのドラヴィダ人では多い順にH:32.9%、O:13.6%、L:11.6%、R1a:11.0%、J:10.5%となっている。倭国は南朝鮮と北九州である。
 日向南西部の山岳地帯=宮崎県西諸県郡高原町(島津庄=都城市の近く)で生まれた神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)は、紀元前667年に兄3人と共に南九州を出発し、隼人族(鹿児島県、宮崎県南部)を中心とする九州南部(鹿児島県、熊本県、宮崎県)の熊襲を伴って、大分から船出して、瀬戸内海沿岸の華北人に稲作の技術指導をしながら東征した。3人の兄が亡くなったが、奈良県橿原市で末子相続(母系家族であるフン族や縄文人の慣習→モンゴル帝国も末子相続だった)により初代天皇に即位し、神武天皇となった。大坂湾の2700年前の地形を知っていれば日本書紀の記述のとおりだと分かる。誰かさんは日本書紀を否定し、都市伝説ばかり信じているが、朝鮮に都合の良いファンタジー歴史はすべて嘘である。日本国=大和(yamato)はタミル語で「日の登る東の国」という意味である。なお、神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)の母も祖母も奄美大島の人間である。
 天皇を警護する隼人族は若狭(福井県)などの北陸に強制移住させられた。
 神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)は日本の初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)。諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さぬ)。『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。日本統一前の天皇家は縄文中期頃には成立していた。
 神武天皇後の天皇も武力だけでなく、稲作のための水路を作るなどの経済政策、ユダヤ王同様に祭祀王として日本神道=イスラエル神道に基づき統治した。神武天皇は全国から少しずつ玄米を集めて蓄え、災害地や不作の地に備蓄米を配給した。これが建国の詔になった。

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8 岩石(ハンドルネーム QcU2xgLR 返信

 中国やロシアは政府高官による不正が続き、修正社会主義がうまく機能しない。平安時代の日本は一般市民は刑部省取り締まったが、中央官庁役人や政府高官が不正を働いたら、切り捨てにできる弾正台を設けていた。幸い不正を働く者はいかなかった。中国共産党政府やロシア政府にはこの壇上大仁相当する者がないので、共産党幹部による不正蓄財が横行している。
 弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、律令制下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つで、古代と近代(明治時代初期)に存在した。
 律令制律令制下の八省の一つ。 ⇒ 弾正台(律令制)
 明治時代の太政官制における省庁の一つ。 ⇒ 弾正台(明治時代)
この項目では官庁としての弾正台のほか、官名・称号としての「弾正」についても記述する。
 弾正台の主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりであり、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。官舎は皇嘉門付近にあった。行政官・立法官である太政官の影響を受けないよう独立した監察機関として設置されたが、実際は太政官の因事管隷のもと、充分機能した例は少なく、裁判権・警察権も刑部省・各官司が握っていたため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はなかった。嵯峨天皇時代に令外官として検非違使が創設されて以来、徐々に権限を奪われ有名無実化した。
 戦国武将として有名な織田信長も弾正台に家だったので、織田信長が今川義元を打倒すると、弾正が政府高官を断罪したとして全国に名を轟かせ、全国の武士が織田信長の元にはせ参じた。これによって織田信長は農民と武士を兼務し農閑期だけ戦に参加するこれまでの武士と違い、専門の武士団を形成した。濃尾平野はコメが多く取れて財政が豊かだったが、織田信長は楽市楽座によって更に多くの税を集めことができるようになり、その収入によって武士団を養った。日本では正義が行われるが、中国では悪事が行われる。中国共産党は国民の反乱を常に恐れている。しかし、終戦後、警察や軍隊が解散され、昭和天皇を護衛する者がいなく、昭和天皇は護衛もなしに行幸を行い、民衆の間に入って国民をねぎらった。欧米や中国ではこのような無防備なことをすると、石を投げられたり、暗殺されたりするが、無防備のままで民衆をねぎらう昭和天皇に石を投げたりする者は一人もいなかった。欧米人はこれに驚いた。日本では上の者は思い責任を負っているが、欧米や志那朝鮮では上の者が責任を負わず、民衆を搾取するだけである。日本の国の成り立ちからして欧米や志那朝鮮と全く違っている。

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7 岩石(ハンドルネーム pODW7RTF 返信

 日本は江戸時代に既に資本が蓄積され、資本家が育っていた。ヨーロッパは市民革命によって資本主義となったが、日本では市民革命に変わって武士がこの革命を起こして資本主義が成立した。日本は、約150年前に資本主義を導入したことで急速な経済成長をし続け、21世紀初頭まで、アジア唯一の先進国として経済・産業面で世界をリードするまでに発展した。日本経済は、他の資本主義先進国である欧米とはちがうしくみで発展をしてきた。ただ欧米のマネだけで発展したわけではない日本独自の資本主義システムが国内の経済発展にどのような影響をあたえたのかは、意外と知られていない。
 日本は、江戸時代末期に高度に発展していた欧米諸国の侵略から自分たちを守るために、彼らの持つ科学技術・社会制度を取り入れることにした。日本は、明治時代(1868年~1912年)になり、本格的に欧米の資本主義システムを導入した。証券取引所の功績は、市場からひろく初期資金を集めたことで、日本の各産業が発展しやすくなった。
 1884年には、巨額の費用を投じて建設した官営工場を、政商たちが安い値段で購入します。安い価格で購入した官営工場で製品をつくり利益を上げ、資本を蓄積するようになった政商たちは、昭和前期まで、日本の資本主義成長の中心になった。1880年代には鉄道や紡績産業を中心に、株式会社が相次いで設立された。蒸気機関によって24時間機械を動かす大規模な工場生産体制が確立し、つくりだされた安価な綿糸は、全世界に大量輸出された。1904年に勃発した日露戦争では、世界トップクラスの強国ロシアとの戦いに必要な戦費を、アメリカのユダヤ人投資家ジェイコブ・シフから支援してもらいます。日露戦争勝利後の日本は、世界有数の強国ロシアに勝利したことで、国際的な信用力を増します。そして信用力を得た日本を見た欧米諸国は、江戸時代に結んだ不平等条約を改正します。条約改正の結果、日本は貿易で自由に関税をかけられるなど、経済成長に有利な環境をつくりだせた。そして経済成長に有利な環境のもと、日露戦争後の日本経済は、欧米先進国の水準にまで発展していきます。日露戦争後の日本は、世界の資本主義一等国の仲間入りを果たします。日露戦争後の会社数の増加はめまぐるしいものでした。明治時代には労働者の半数が農民でしたが、大正時代(1912年~1926年)になると工場勤務者やサービス業従事者の割合が増えていきます。日本は1914年に勃発した第一次世界大戦で、戦場になったヨーロッパ各国へ物資を輸出したり、対戦国に代わってアジア市場へ進出したため、産業界が空前の好景気となります。続く

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6 岩石(ハンドルネーム X8ZMMU0X 返信

 飛鳥時代~奈良時代は公地公民と言って、現代で言う社会主義だった。
 公地公民制(こうちこうみんせい)とは、大化の改新に始まる日本の飛鳥時代~奈良時代までの律令制が構築される過程において発生したとされる、全ての土地と人民は公・すなわち天皇に帰属するとした制度である。
 通説では、645年(大化元年)の乙巳の変により即位した孝徳天皇は、翌646年(大化2年)新たな施政方針を改新の詔として示した。詔は大きく4か条の主文と、主文それぞれに対する副文から構成されていた。第1条には「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」と定められた(原文: 罷昔在天皇等所立子代之民處々屯倉及別臣連伴造國造村首所有部曲之民處々田莊。)。
 大化以前は、天皇や豪族らは各自で私的に土地・人民を所有・支配していた。天皇・王族は、私的所有地である屯倉と私的支配民である名代・子代などを保有し、豪族らは、私的所有地である田荘と私的支配民である部曲などを保有していた。ところが、改新の詔第1条は、こうした私的所有・支配を禁止し、全ての土地・人民は天皇(公)が所有・支配する体制の確立、すなわち私地私民制から公地公民制への転換を宣言するものである。
 公地公民の原則に従って、朝廷は班田収授法に基づき人民へ口分田を与え、租税を納める義務を課した。この原則は、701年に制定された大宝律令にも継承され、律令制の根幹原則となった。しかし、奈良時代に入ると三世一身法や墾田永年私財法により、人民による土地の私有が認められると、土地の公有という公地公民の原則が次第に形骸化していった。そして、土地私有によって荘園が盛行すると公地公民制は崩壊し、公地公民を原則とする律令制も瓦解への道をたどった。
 新説では、上記のような公地公民論は、次第に疑問視される傾向にある。
 まず、大化以前の支配体制とされる私地私民制について、屯倉が王権を支える経営拠点であるように、田荘もまた豪族の政治的地位を支える農業経営拠点であると解される。屯倉と田荘は、天皇や豪族らの経営拠点であって、必ずしも天皇や豪族らの私有地を意味するものではなかったのである。
 また、豪族による田荘・部曲の支配は、改新の詔で禁止されたはずだったが、その後も朝廷が田荘・部曲の領有を豪族へ認めた事例が散見される。つまり、土地・人民の所有禁止は実際には発令されなかったか、もしくは所有禁止の実効性がなかなか各地へ浸透しなかったことを表す。これは、公地公民の原則が、当時の社会へ強力に貫徹していた訳ではなく、あくまで理念として掲げられていた側面が強かったことを示唆する。
 さらに、従来、公地と考えられてきた口分田は、律令施行の当時、実際のところ、私田・私地と認識されていた。公地公民制の基礎と言える「公地」の概念は、当時存在しておらず、口分田が「公田」と認識されるのは、墾田永年私財法(743年)以降である。すなわち、奈良時代当時、三世一身法や墾田永年私財法の施行によって、公地公民制や律令制に大きな破綻が訪れるという意識は存在していなかった。そもそも当時、公地公民制という概念が存在していなかった可能性が高く、また三世一身法・墾田永年私財法は、むしろ律令制を補強することを目的として制定されたのである。
 上記のように、公地公民制が律令制の根幹をなすという従来の通説は、大きく見直されつつある。
 いわゆる社会主義制度では生産性が上がらないので、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)によって、723(養老7)年の三世一身法を大幅に改変したもので,位階による開墾面積の制限,百姓の妨げとなる土地の禁止,申請後3年以内に開墾に着手すべきこと,開墾には国司の承認の必要なこと,などの条件をつけ,墾田の永久私有を認めた。墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令で墾田永世私財法ともいう。後にこの制度は崩れてしまう。荘園発生の基礎となった法令である。1897年にも開墾地無償付与という似た制度が実施されている。
 この後、日本では混乱が起きた。日本は最も成功した社会主義であるというが、実は長い歴史があってのことです。最近、社会主義となったソ連共産党や中国共産党とは年季が違います。

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