ナスチャンネル Nastia in Japanへのコメント
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5 岩石(ハンドルネーム cogB6TSY 返信
チンギスハンはモンゴル人ではなくブリヤ―ト人であり、元寇ではブリヤ―ト人を遠祖とする民族同士が戦かった。といっても、ほとんどが弱いことで有名な高麗人と南宋人だったので、日本の楽勝だった。鎌倉からの援軍(毛人=地中海沿岸系や蝦夷=匈奴)が到着する前に九州勢地方(熊襲)と中国地方勢(華北人)だけで勝ってしまった。モンゴル兵も日本武士も射程の長い弓を馬に乗りながら騎射するので、モンゴル兵と日本武士であれば、互角になっていたが、元軍は馬を船に乗せて連れてくることができなかった。
元軍が最初に博多に姿を現すのは6月初め。そこから志賀島に上陸し、7月初めまで湾内の戦いが続く。そして1ヶ月以上戦った後、元軍は船に押し込められたまま台風に遭遇。台風の前に元軍は負けている。またモンゴル軍というと騎馬兵のイメージがあるが、水や飼葉のことを考えると、当時の技術で人数分の馬を海上輸送するのは不可能。彼らのほとんど(もしくは全員)は歩兵でした。
元軍は、日本の前に南宋を滅ぼしている。南宋と幕府はかつて同盟関係にあり、北条時宗は南宋からの亡命者や貿易商人を厚め、逐一情報を得ていた。元軍到着前に上陸地点を正確に予想しており、要塞を築いて全国から御家人の集結も完了済だった。当時は座礁リスクもあり、小舟で分乗して来るしかなかった。兵力が分散するので、幕府側は陸地で待ち構えて各個撃破する。
対峙する日本軍の数は6万人ほど。更に東国から援軍が続々と出陣していたが、彼らが到着する前に元軍は引き上げていた。ただし、当時の武士は「弓馬の芸」というくらいで、主な武器は騎乗しての弓矢だった。ヨーロッパのロングボウが大きいもので2メートルほど。対して武士の和弓は、定寸が7尺5寸(約2.3メートル)。更に和弓は両面を削った木に、炭化させた2枚の竹を合わせて靭性を確保し、強い攻撃力を誇った。源為朝は8尺5寸、8人張り(7人で弓を曲げて1人が弦をかける)の強弓を用い、一矢で大鎧武者を3人貫通した。5人張りくらいは普通に存在した。そんな長弓を馬上であやつるには、数年におよぶ訓練が必要で、大の男にそんな訓練をゆるす社会でなければならない。
この頃、世界のほとんどの国では、騎兵なんて全軍の5%もいなかった。ほとんどが歩兵。ヨーロッパなどは騎兵、歩兵、弓兵と専門分化するのが当たり前で、例えば槍兵が援護しつつ弓兵で攻撃。続いて歩兵の突撃。騎兵は虎の子であり、神速の機動力で最前線を突破する、又は後方の歩兵補助に用いる。そんな騎兵を大量に擁したところにモンゴル帝国の強さがあったが、対日本ではこれの真逆の状況に置かれた。何せ鎌倉武士は、なんでもできるオールマイティな集団です。和弓の長距離攻撃、騎乗の機動力、さらに重装備の防御を兼ね備えた「重装長弓騎兵」といったところですが、更に太刀や槍もお手の物。アウェイだった元軍にしてみれば、敵の日本軍は地形を熟知しつつ、アウトレンジで機動攻撃をしかけてくる。やっと近接戦に持ち込んだと思ったら、白兵戦の練度も高い。
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4 岩石(ハンドルネーム hmJrQbQe 返信
大和朝廷は財政難から軍備縮小するために少数精鋭の健児の制を設けた。健児とは庶民出身の軍団の兵士とは別に選抜された郡司らの子弟から成る。唐制を参考にして733年精鋭300人を指名、738年に廃止したが、762年に再置した。軍団の兵士は弓馬の心得あるものが少なく、792年に辺境のほかは軍団を全廃し、質の向上を図るため、健児を正規の兵制とした。蝦夷が軽装甲の弓騎兵で構成された騎兵であったため、これに苦汁をなめさせられた。これに対抗するために健児を重装長弓騎兵にせざるを得なかった。この健児が廃止されてからも、各地の有力豪族は健児を基礎とした重装長弓騎兵である武士を召し抱えていった。元寇ではこの重装長弓騎兵である武士が大活躍した。
8世紀の中葉は鎮守府の鎮兵で対応できた蝦夷の状況も、780(宝亀11)年の伊治呰麻呂の乱を契機に始まった蝦夷(=匈奴系日本人)の大規模な反乱で大きく変わることになった。それまでとはけた違いの軍隊が動員されたが、それでも蝦夷の頑強な抵抗を受けて大きな損害を被るということもあった。問題のリード文にもあるように「続日本記」の783(延暦2)年6月6日には「坂東の諸国、軍役有るに属きて、毎に多くは尩弱にして全く戦ふに堪へず。即ち、雑色の輩、浮宕の類有りて、或いは弓馬に便あり、或は戦陣に堪ふ。徴し発つること有る毎に嘗て差点せずと聞く。(中略)坂東の八国に仰せて、有らゆる散位の子、郡司の子弟と、浮宕らの類との身軍士に堪ふる者、国の大小に随ひて、一千已下、五百已上を簡び取るべし」とある。坂東(=毛人=地中海沿岸系日本人)から集めた兵士が弱いので、これからは地方有力者の子弟から成る軍を用意しなさいと記されている。その中に「弓馬に便」とあることにも着目したい。騎兵が期待されているということである。軍防令2には「凡そ兵士は、各隊伍為れ。弓馬に便ならむ者をば、騎兵隊と為よ。余をば歩兵隊と為よ。」とあるから、律令制度下にも騎兵隊があったことは明らかであり、その騎兵隊を構成し乃は、おそらくは地方豪族の子弟であっただろう。軍団の兵士は渡海して戦うことを前提にしているので、主に歩兵である。蝦夷との戦いでは渡海は前提にしないし、何よりも蝦夷が優秀な騎兵であった。これと戦うためには朝廷の軍も騎兵化する必要があった。これを「辺要の地」すなわち大陸に備える西海道諸国と、辺境の陸奥・出羽・佐渡を除いて一般化したのが792(延暦11)年の健児の採用である。
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3 岩石(ハンドルネーム JOGxeezo 返信
加えて、日本語には、何故か、タミル語、ヘブライ語・シュメール語も入っている。
失われた十支族のうちエフライム族が日本に来て、イスラエル神道【旧約聖書】が日本神道になり、神社が全国に建てられた。奈良時代に大乗仏教(厳格な小乗仏教と違い、その頃に流行っていたキリスト教ネストリウス派【旧約聖書】の教義を大幅に取り入れていた。ヨーロッパ流の新約聖書が出来る前)が日本に伝わった。菊家紋は天皇家、イスラエル、シュメール(膠着語)で同じ。天皇の三種の神器のひとつ八咫の鏡の裏面には「エイエ・エシェル・エイエ」=「我は在りて在るものなり」というヘブライ文字が刻まれている。日本の夏祭り=ユダヤ・イスラエルにおける男女の出会いのための祭り、古事記にある伊邪那岐尊(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト) の結婚式の様式=ユダヤ・イスラエル式の結婚式の様式、京都の祇園祭=シオン祭、諏訪大社の御頭祭の神事=旧約聖書にあるイサク奉献の儀式、徳島県の剣山にはユダヤの三種の神器(「アロンの杖」「十戒が書かれた石板」「マナの壺」)が納められている「アーク」が隠されているという説がある、日本酒(葡萄の代わりに米を原料にした)はユダヤ・イスラエルの葡萄酒が元になっている。日本語には一部には意味不明なものがあるが、たいていヘブライ語である。
神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族がシルクロード沿いの弓月国(カザフスタン南東部分)から多数の同族人夫を連れ、3万人~4万人が当国に帰化したとの記録が残っており、天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、秦の始皇帝3世直系の弓月君は秦氏の中心的人物であり、和邇吉師(王仁)によって論語と千字文が伝わったという(『古事記』)。薩摩藩主・島津氏は秦氏(キリスト教ネストリウス派)の末裔であり、家紋は十字架である。
一説には隼人族はタミル人とも言われ、日本語は膠着語であるタミル語、アルタイ諸語、ウラル語族などを原型としている。大和朝廷も明治政府も隼人族が政権中枢を担った。
三重県にある伊勢神宮の周辺にはユダヤの星「六芒星」があちこちにみられる。伊勢志摩には、伊勢神宮はもちろんのことですが、他にも伊雑宮(いざわのみや)という神社がある。伊雑宮の鳥居の前にある石灯籠(とうろう)には、ユダヤのマークである六芒星(ろくぼうせい)が彫られていた。「イザワ」とは「イザヤ」を意味するのではないか?つまり「イザワの宮」とは、「イザヤ」の「宮」である可能性がある。「イザヤ」とは、紀元前8世紀にユダ王国で活躍したユダヤの預言者。時は、ちょうどアッシリアによってイスラエル王国が侵略された頃。イザヤはイスラエル王国とユダ王国にいた同胞に国家崩壊の危機を叫び、国を出たのかもしれない。「失われた10支族」のように、その後、シルクロードを渡り、日本にたどり着いた可能性がある。日本の国産みをしたイザナギもイザヤに由来している。イザヤとは、ヘブライ語で「神の救い」という意味を持ち、「ナギッ」とは君主を意味する。だからイザナギとは「神の救いの君主」「イザヤ王子」という意味になる。「旧約聖書」(イザヤ書24章15節)の中に「東で神を崇あがめ海の島々(海沿いの国)でイスラエルの神、主の名を崇めよ」という言葉がある。イザヤをはじめユダヤの人々は、その言葉を胸にシルクロードを渡り、この伊雑宮までたどり着いた? 伊雑宮の神職は古くから「伊雑宮が日神(=太陽神)を祀る社であり、内宮(ないくう)・外宮(げくう)は星神・月神を祀るものである。つまり、伊雑宮が正統な伊勢神宮である」という説を唱えていた。それを裏付けるものが、聖徳太子によって編纂されたとされる神道の経典「先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)」だったが、内宮・外宮の神職がこの書の内容について江戸幕府に正しいのか否かを求めた結果、この書は偽物であるとされた。この事件は「先代旧事本紀大成経事件」と呼ばれた。しかし今でも、その説をもとに、「本当の神宮は〝伊雑宮〞なのではないか?」などと言っている人もいる。伊勢神宮の灯籠にも六芒星が彫られている。
昭和天皇の血液型はAB型Rh-で、イエスキリストと同じ。Rh-の発現率は日本人0.5%で、白人の15%に比べると相当低い率となっている。イスラエルでもRhマイナスは多い。日本神道はイスラエル神道が元になっている。欧米人は初めて日本の天皇家を見て「まるで中東の人間のようだ」と語った。天皇は古代イスラエル王と同じで祭祀王である。
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2 岩石(ハンドルネーム kD3YYKrJ 返信
遼河文明と関係するフィンランド語やブリティシュ英語・ウラル語族、シナ・チベット語族、ベトナム系言語、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族、ラテン語・古代ロマンス諸語、スコットランドやアイルランドのケルト語・古代ゲルマン諸語、トルコ語などのチュルク系言語やツングース系言語・古代アルタイ諸語、インディアン語族などいろいろな言語が混合して縄文語ができ、日本語のルーツとなった。なお、広東語漢字、シュメール語・ヘブライ語(膠着語)等が混じっており、縄文時代から古代文字、広東語漢字、ヘブライ文字等が記録に使われた。北米インディアンのナバホ語は膠着語と屈折語が混合したが、日本では屈折語の代わりに孤立語(漢語)が膠着語の中に練り込まれた。漢字の音読みは概ね広東語読みで、訓読みは概ね大和言葉 (タミル語)である。日本国=大和(yamato)はタミル語で「日の登る東の国」の意味である。北米インディアンのナバホ語は膠着語と屈折語が混合したが、日本では屈折語の代わりに孤立語(漢語)が膠着語の中に練り込まれた。
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16 岩石(ハンドルネーム empDQltU 返信
現在、ロシア人は北アジアにおいては多くが南端に住んでいますが、これは最終氷河期に日本人の先祖が通って来た経路です。ロシア人は近世にテンの毛皮を追ってツァーリズムを展開したが、日本人の先祖は最終氷河期にマンモスを追ってツァーリズムを展開した。
最終氷河期は中近東とヨーロッパは陸続きだったので、ハプログループDEは西アジアor南ヨーロッパに入った後、DE→D(約6万年前、黒海北岸)、E(6万5200年前、地中海沿岸)に分かれた。ハプログループEはエジプトなどのアフリカ、イタリア、フランス、ドイツなどの西欧、ウクライナなどの南欧、イスラエル、イランなどの西アジア、インドなどに残った。ハプログループD=日本人の先祖(ラテン系日本固有種D-P37.1*、D-M116.1*、D-M125*、D-P42、ロマンス諸語)は、黒海北岸(現在のウクライナ、モルドバ、ルーマニアあたり。ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されている)に住んでいた。3万9000年前にイタリアで火山の大噴火が起きた。3万年前頃から、食料となるマンモスを追って東に進み、バイカル湖畔を経由して約2万年前に寒冷化による南下を始め、アムール川、沿海州を通って、氷河期は海面が140メートル低く陸続きとなっていた樺太や北海道(この辺りまでマンモスが生息)に南下した。約1万4000年前、凍った津軽海峡を渡って東日本縄文人となった。ヨーロッパ南部(+南欧系I-P19、ロマンス諸語)→西シベリア南部(+ゲルマン系R-M207、約2万7000年前以降、ゲルマン諸語)→バイカル湖畔(+トルコ系C-M217*、約2万年前、アルタイ諸語)→アムール川(+タタール系Q-P36)→沿海州(+北方ツングース系ウリチC-M86)→樺太→北海道(約2万年前、残留組がアイヌ)→東日本(約1万4000年前)と移り住んだ。主に関東に住んでいた東日本縄文人は、3500年前頃、寒冷化に伴い、西日本(人口は東日本の10分の1)に広がり、日本海沿岸、太平洋沿岸、東シナ海沿岸、沖縄に移り住んだ。
日本には、4~5万年前、北東亜平野から日本に広がった最初の日本人(N-LLY22g、N-M178、NO-M214*=福岡県と徳島県、日本固有種O-47z、日本固有種C-M8、ウラル語族)が北海道を除く日本全国に住んでいたが、特に東北に多く、4万年前(世界より2万年早い)に磨製石器を発明した。ヨーロッパから広がったネアンデルタール人は日本にも旧石器時代中期の12万年以上前から住んでいた。ネアンデルタール人は、北方の気候に適応して、①現在のヨーロッパ人以上に白い肌、②金色や赤い色の毛、③青い目や灰色の目、となる。青い瞳等は、ネアンデルタール人→最初の日本人(ハプログループN)→北東亜平野で匈奴(ハプログループN)→西シベリアでヨーロッパ人の先祖(ハプログループR)と受け継がれていった。
縄文時代(紀元前1万4000年から紀元前1000年頃まで)以降、長江文明人(O-M95*、O-LINE1、O-M134、O-SRY、O-M122*、インドからの移住者はタミル語、長江沿岸先住民は広東語)が黄河文明人に侵略されて東南アジアや極東アジアに逃げたが、その先頭が東シナ海を渡って北九州から侵入し、瀬戸内海沿岸、大坂、中部地域などに住んだ。在来の日本人と混血していった。日本列島がステップ気候から森林に変わると、太平洋の島々(最南端はパラオ、グアム)の人々(台湾と同じ旧分類O1系統)も日本列島に移り住み、その言語(オーストロネシア語族)も取り込まれた。7300年前に喜界島が超巨大噴火を起こし、タミル人の多かった九州南部の薩摩半島・大隅半島・屋久島・種子島等の縄文人が絶滅した。日本全国に灰が積もったことから、7000年前に朝鮮半島に渡り始め、縄文語から朝鮮語が分かれた。志那大陸は3000年前から春秋戦国時代となり、志那難民が日本に逃げて来た。
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