ナスチャンネル Nastia in Japanへのコメント
トップページへ戻るコメント投稿
15 岩石(ハンドルネーム JCk66aiE 返信
タタール人(ハプログループQ、C、N)の3割が金髪で青い瞳だそうだ。フィンランド人(ハプログループN【Y染色体】、ハプログループZ【mtDNA】)は金髪で青い瞳です。実は日本でも平安時代まで、東北地方の蝦夷(えみし)(ハプログループN【Y染色体】、ハプログループZ【mtDNA】)は金髪で青い瞳だった。大和朝廷に逸してからは日本全国に広がった。その結果、日本人には劣性遺伝の青い瞳の遺伝子が隠れて居ることが多い。日本人にも青い瞳や金髪の人間はいる。南欧ラテン語系先住ヨーロッパ人が東進した地中海沿岸系日本人(ハプログループD【Y染色体】)は天然パーマで毛深い。天然パーマは優性遺伝なので、日本人の7~8割が天然パーマか癖毛である。中国人は直毛だが、日本人は直毛ではない。天然パーマで悩む日本人は多い。美容師の間ではこれは常識である。
+0
-0
14 岩石(ハンドルネーム RN05945C 返信
私は学習院大学経済学部を卒業して労働省本省労政局に入省した。私は今上天皇の浩宮親王時代に学習院大学構内で何度か出くわした。浩宮についてもいろいろ噂を聞いた。私は40代半ば、6月に3週間程度、厚生労働省本省職員として遺骨収集のためにブリヤ―トに行った。ロシアの空港では公用パスポートの者は一般人とは違う通路を通らされた。新潟で1泊し、新潟空港から日本の旅客機でハバロフスクに飛び、ハバロフスクで1泊し、ハバロフスクからロシアの旅客機でイルツークまで飛んだ。イルツークで1泊し、イルツークからバスでブリヤ―トに向かう途中、ロシア人警察=内務省軍に日本の関東周辺の民間人がパスポートを見せても「お前は本当に日本人か?ブリヤ―ト人ではないか?」と言ってなかなか開放されなかった。私はフランス人並の癖毛でロシア人顔である鹿児島県生まれの生粋の日本人なので、ブリヤ―ト人に間違われることはなかった。私は後頭部が絶壁なので、スンダランド系だと思っていたが、最近、12~1月に5日間、友人たちとマレーシアのペナン島に行ったらマレーシア人は私と全く見た目が違っていた。日本語が堪能なロシア人のyoutubeに出てくるロシア人(ロシア国内の動画)が私や私の父によく似ていることが分かった。私の母の天然パーマはフランス人と同じことが分かった。日本から連れて来たロシア人通訳とは別にブリヤ―ト人通訳がバスに同乗した。ブリヤ―ト人通訳に対して誰かが「日本語を話せるなんてすごいね」と言うと「日本語はブリヤ―ト語(モンゴル語系)と文法が同じなので、簡単です」と返事した。日本語とモンゴル語は文法がほぼ同じ。モンゴル族系中国人は漢字も知っているので、日本語をマスターするのが早い。満州語も日本語と文法が同じである。7000年前に縄文語から朝鮮語が分かれたが、朝鮮族系中国人も漢字を知っているので、日本語をマスターするのが早い。日本語にも韓国語・朝鮮語にも丁寧語・謙譲語・尊敬語がある。緯度はイングランドと同じで、白夜に近く、日の出が午前5時(日本4時)、日の入りが午後12時(日本11時)だった。ブリヤ―ト人が「日本人には蒙古斑がある。我々にも蒙古斑がある。中国人には蒙古斑がない。日本人と我々は何か関係あるのか」と聞いてきたので、私は「日本の縄文人はブリヤ―トからやってきた」と教えた。そのブリヤ―ト人は「そうだったのか」という顔をした。ブリヤ―トはユーラシアステップにあり、乾燥して灌漑が難しい。6月のブリヤ―トは気温28度でも湿度が低いので、熱く感じられなかったが、日本に戻ってきたら、湿度が非常に高く、気温23度でも熱く感じられた。
ほとんどのブリヤ―ト先住民はモンゴル顔だったが、チベット仏教寺に行った際、店員は縄文顔だった。ブリヤ―ト人(血液型A型とB型が多い。現在はハプログループC2【モンゴル系】とN【遼河文明系】が多い)から日本人(ハプログループD=血液型A型が多い)とモンゴル人(ハプログループC2=血液型B型が多い)に分かれた。チンギスハンはモンゴル人ではなくブリヤ―ト人であり、元寇ではブリヤ―ト人を遠祖とする民族同士が戦かった。といっても、ほとんどが弱いことで有名な高麗人と南宋人だったので、日本の楽勝だった。鎌倉からの援軍(毛人=地中海沿岸系や蝦夷=匈奴)が到着する前に九州勢(熊襲)と中国勢(華北人)だけで勝ってしまった。この頃、世界のほとんどの国では、騎兵は全軍の5%もいなかった。ほとんどが歩兵。ヨーロッパなどは騎兵、歩兵、弓兵と専門分化するのが当たり前で、例えば槍兵が援護しつつ弓兵で攻撃。続いて歩兵の突撃といった感じだった。騎兵は虎の子であり、神速の機動力で最前線を突破する、又は後方の歩兵補助に用いる。モンゴル兵も日本武士も射程の長い弓を馬に乗りながら騎射するので、モンゴル兵と日本武士であれば、互角になっていたが、元軍は馬を船に乗せて連れてくることができなかった。騎兵を大量に擁したところにモンゴル帝国の強さがあった。葦の原の湿地帯が多い日本では蝦夷との戦いを経験し、健児は重装長弓騎兵となっていた。健児を基盤に発達した日本の武士は重装長弓騎兵であった。日本は重装長弓騎兵を数万人規模で動員してくるので、対日本ではこれの真逆の状況に置かれた。何せ鎌倉・九州武士は、なんでもできるオールマイティな集団である。和弓の長距離攻撃、騎乗の機動力、更に重装備の防御を兼ね備えた「重装長弓騎兵」といったところだが、更に太刀や槍もお手の物。アウェイだった元軍にしてみれば、敵の日本軍は地形を熟知しつつ、アウトレンジで機動攻撃をしかけてくる。やっと近接戦に持ち込んだと思ったら、白兵戦の練度も高い。
+0
-0
13 岩石(ハンドルネーム xTeR1VTZ 返信
フランス人のアンジェラは私の母と顔も天然パーマも同じです。私は子供の頃、母の天然パーマが嫌だと思っていたら、私も大人になると癖毛になってしまった。調べたら日本人の7~8割が天然パーマもしくは癖毛だということが分かりました。未だに日本人は直毛で黒髪という嘘を言う人がいます。日本人は他の東アジア人とは遺伝的にまったく違うことも分かりました。
私は彫りが深いだけではない。若い頃、抜け毛が酷くて、整髪会社に髪の毛のサンプルを送って調べてもらったら、髪の毛の断面が楕円形だという報告が返ってきた。私は「これはどういうことだ」とパニックになった。私は日本人なので、当然、直毛で、髪の毛の断面は円形だとばかり思っていた。完全に髪の毛の断面がヨーロッパ人と同じです。母はフランス人と同じ天然パーマで、美容室に行くとストレートパーマをかけた。禿げている者は母方に1人いるだけで、それ以外の親戚に禿げている者はいない。これもヨーロッパ人に多い。私は、①二重瞼(眉下の皮膚が上瞼に被さっている)、②眼の位置が低く、鼻が顔の中央にある(眉間上部より立体的に鼻が垂れ下がっているため目元がくぼんで見える)、③前額部が突出し、彫りが深い、④ウェーブ(天然パーマ・クセ毛)が多く、禿げている、➄体毛や髭が多い(ヨーロッパ人並)、⑥湿った耳垢である、⑦眉が濃い、⑧眉と目の間隔が狭く、眼が額につき刺さっている、⑨口元が引っ込み、前顎が出ている、⑩後顎が角ばっている、などヨーロッパ人と同じ特徴がいろいろあり、日本人の特徴がまったく当てはまらない。アジア人と違い、シミになりやすいのもヨーロッパ人の特徴と分かった。アジア人は実年齢よりも若く見えるが、欧米人は老けて見える。私が若い頃から老けて見られていたのもヨーロッパ人の特徴があるからだった。ずっと家に籠っていたら、顔が真っ白になった。1日中、日にあたっても腕が赤くなるだけだった。年を取って禿げたら、ベラルーシのアレクサンドル・グリゴリエヴィッチ・ルカシェンコ大統領と同じ顔になってしまった。髪の毛もほとんど白髪になった。白髪は透明であり、白い訳ではない。
私の兄がアメリカ合衆国ニュージャジー州にあるパイオニア(株)北米headquarterに勤めながらコロンビア大学の経営学修士(MBA)をとるために留学している頃、兄がアメリカ人の友人に「俺は日本人だ」と言うと、アメリカ人の友人は驚いて「ショーン(兄のアメリカでの通称)はてっきりイタリア人だとばかり思っていた」と話した。その後、イタリアのナポリの人たちが出てくるテレビ番組を見ていたら、兄とそっくりな人ばかり出てきた。イタリアのナポリの人間を兄と勘違いしそうになった。兄の顔や頭の形状なども、①極めて彫りが深く、眼の位置が低い上、眼が酷く窪んでいる、②眉と目の間隔が狭く、眼が額に酷く突き刺さっている、③二重瞼(眉下の皮膚が上瞼に被さっている)、④ウェーブ(天然パーマ・クセ毛)が多く、禿げている、⑤前顎が出て、口元も引っ込んでいる、⑥後頭部が後ろに大きく突き出している、などコーカソイドそのものである。今回、兄の骨格はコーカソイドの特徴だと分かった。モンゴロイドのものとは全く違う。最近で言えば、ユダヤ人であるアントニー・プリンケン米国国務長官と同じ系統の顔である。
駐日インド大使の肌を白くすると私の弟にそっくりです。父はコーカソイドでスラブ人顔の美男子だった。妙に顔に凹凸のある母の顔は新モンゴロイドとして見ると極めて変な顔だが、コーカソイドで天然パーマのフランス人として見ればわかる。鹿児島県から福岡県と宮崎県を経て、小学校1年生で岐阜県各務原市に引越してきた。ここでは中国人に近い東アジア系(ハプログループO)が多かったが、遼河系(ハプログループN)と思われる友人には、①ヘーゼル色の瞳を飛び越えて瞳が明るい緑色と茶色の中間(サーミ人やフィン人との目の色と同じ)で青い瞳に近かった者、②金髪と銀髪の中間(フィン人と同じ髪の毛の色で、髪の毛が細かった)の者、がいた。東北には蝦夷=匈奴系(ハプログループN)が多く、青い瞳や金髪の者がいる。ネアンデルタール人が約4万年前に絶滅したが、4~5万年前から日本に住み、これと交配していたハプログループNに青い瞳や金髪が出やすい。関東では毛人=地中海沿岸系(ハプログループD)が半数以上いる。持統天皇(女性天皇)や三韓征伐の神功皇后は金髪碧眼(ハプログループN)だった。平清盛の娘であり、後白河上皇に嫁いだ平滋子は天然パーマ(ハプログループD)だった。
+0
-0
12 岩石(ハンドルネーム yDmhRrVD 返信
ほとんど毎日、ナスチャンネル、あしや、北のアリョーナ、安涼奈、アンナちゃん寝る、カチョックTV・ティナちゃんねる、あーにゃ&しょうたろう の国際結婚Vlog、オリケンチャンネルなどいろいろなyoutubeを見ています。ナスチャさんが指宿を訪れたがありましたね。私は指宿市の隣の南九州市知覧町の生まれで、私の祖父は頴娃町の出身です。実は、祖父は眞田幸村が薩摩落ちした時の子孫です。頴娃町牧之内の雪丸には眞田幸村の墓とされる墓があり、NHKの大河ドラマ「真田丸」で眞田信繁(幸村)役を演じた堺雅人や豊臣秀頼役を演じた中川大志も雪丸にある眞田信繁(幸村)の墓を訪ねておまいりをしたことが有名になりました。せっかく指宿に行ったのであれば、雪丸にある眞田幸村の墓を訪ね刃良かったのにと思いました。私はおそらく、ナスチャさんはこの話を知らなかったのでしょう。
遼河文明と関係するフィンランド語やブリティシュ英語・ウラル語族、シナ・チベット語族、ベトナム系言語、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族、ラテン語・古代ロマンス諸語、スコットランドやアイルランドのケルト語・古代ゲルマン諸語、トルコ語などのチュルク系言語やツングース系言語・古代アルタイ諸語、インディアン語族、タミル語、ヘブライ語・シュメール語などいろいろな言語が混合して縄文語ができ、日本語のルーツとなった。なお、広東語漢字、シュメール語・ヘブライ語(膠着語)等が混じっており、縄文時代から古代文字、広東語漢字、ヘブライ文字等が記録に使われた。北米インディアンのナバホ語は膠着語と屈折語が混合したが、日本では屈折語の代わりに孤立語(漢語)が膠着語の中に練り込まれた。漢字の音読みは概ね広東語読みで、訓読みは概ね大和言葉 (タミル語)である。日本国=大和(yamato)はタミル語で「日の登る東の国」の意味である。北米インディアンのナバホ語は膠着語と屈折語が混合したが、日本では屈折語の代わりに孤立語(漢語)が膠着語の中に練り込まれた。
+0
-0
11 岩石(ハンドルネーム 8ZsYUz5Z 返信
ハプログループNは北(1万2000年前)や西(紀元前?)に移動した。1万2000年前に北に移動した者は北アジア(東シベリア=極東、西シベリア、ウラル地域)や北欧に住んだ。この人たちは金髪碧眼ではない。遼河沿岸地帯は1万2000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。金髪碧眼のハプログループNが青森県の三内丸山遺跡を担った。この人たちは栗や栃の実などを栽培していた耕作地が疲弊してきたため、青森から関東方面に向けて移動していった。日本では3500年前頃から寒冷化に伴い、東日本縄文人(東北のハプログループN、関東のハプログループD)が西日本に流入し始めた。縄文文明(紀元前1万4000年~紀元前1000年頃、ウラル語族)と遼河文明(紀元前6200年前~紀元前500年頃、ほとんどがハプログループN、ウラル語族)は関係が深かったことから、遼河文明人も縄文文明人の金髪碧眼を受け継いだ。その後、遼河文明人は(狭義の)匈奴(ハプログループNのフィンランド人やハンガリー人など、ウラル語族)となり、長江文明人(紀元前1万4000年頃~紀元前1000年頃、ハプログループO1b=旧O2、ベトナム系言語)を侵略していた黄河文明人(紀元前7000年~紀元前1600年、ハプログループO2=旧O3、シナ・チベット語族)を侵略した。日本には日本固有種のハプログループO1b=旧O2系統のO-47z、N、NO、D系統等が住んでいたが、長江文明人(紀元前1万4000年頃~紀元前1000年頃、ハプログループO1b=旧O2、ベトナム系言語)が東南アジアや日本などに逃げてきた。春秋戦国時代になると、黄河文明人の末裔たち(ハプログループO2=旧O3、シナ・チベット語族)も日本に逃げて来て瀬戸内海沿岸に住み、在来の日本人と混血した。狭義の匈奴(ハプログループN)も最初は遼河沿岸に住んでいたが、遼河沿岸が砂漠化したことから紀元前?に西に移動した。西に移動する途中の匈奴(ハプログループNのフィンランド人やハンガリー人)が金髪碧眼のソグド人である。その頃の西アジアにはハプログループRがいたので、ソグド人はこれと混血したと思われる。その証拠にハンガリー人はハプログループNとRが混血している。現在は北欧(ハプログループNのフィンランド人、ウラル語族)や東欧(ハンガリー人、ウラル語族、もとはハプログループNが多かったが、現在はヨーロッパ人の遺伝子が多くなっている)に住んでいる。後に、(狭義の)匈奴にモンゴル(ハプログループC2、アルタイ諸語)を含めて(広義の)匈奴と言うようになった。漢帝国はモンゴルも含めた(広義の)匈奴(ハプログループC2とN)の属国だった。遼河はモンゴル東部地域から中国東北地方に亘って流れている。
+0
-1
10 岩石(ハンドルネーム M8WNsXc2 返信
ヨーロッパから広がったネアンデルタール人は日本にも旧石器時代中期の12万年以上前から住んでいた。ネアンデルタール人は旧石器時代の石器の作製技術を有し、火を積極的に使用していた。ヨーロッパのホモ・サピエンスはネアンデルタール人を絶滅させたが、日本ではネアンデルタール人と共生していた。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は交配していた。ヨーロッパの白人にはネアンデルタール人のY染色体遺伝子が含まれていないが、日本人にはネアンデルタール人のY染色体遺伝子が少し残っている。つまり、日本では緩やかに混血して共生していた。ネアンデルタール人は、北方の気候に適応して、①現在のヨーロッパ人以上に白い肌、②金色や赤い色の毛、③青い目や灰色の目、となる。青い瞳等は、ネアンデルタール人→最初の日本人(ハプログループN)→北東亜平野で匈奴(ハプログループN)→西シベリアでヨーロッパ人の先祖(ハプログループR)と受け継がれていった。明るい色彩の目や髪はハプログループNの割合が大きいサーミ人(ノルウェー)とフィン人 (フィンランド)に特に多い。サーミ人やフィン人は銀髪だが、中部以北の匈奴系日本人(ハプログループN)には顔が白く金髪がかった銀髪の者や青い瞳に近い者もいる。東北には顔が真っ白で青い瞳や金髪の者がいる。
現在は海底となっているスンダランド大陸低地で2万年前頃から稲作が始まった。約1万9000年前から海面上昇が始まり、原住民はスンダランド大陸低地を放棄し、移動した。稲作は長江沿岸に1万2000年前、鹿児島に1万2000年前、岡山に6000年前伝わった。熱帯植物である稲は黄河沿岸以北や朝鮮北半部などでは栽培できない。日本では、暖流である黒潮のおかげで関東まで稲作ができる。朝鮮も南半分で稲作ができる。稲作は朝鮮を経由していない。稲作のための水路を作る過程で大量の土が余り、その土で古墳(匈奴由来)を作った。1万2000前に朝鮮半島の先住民(ハプログループN)は、朝鮮半島の木を燃やし尽くし、朝鮮半島が禿山になったため、北アジア一帯及びウラル地域から北欧にかけて移動した。朝鮮半島では草が生え始めてから5000年経ってやっと森林が復活した。この間、人間は住んでいなかった。神武東征(紀元前667年)後、稲作・古墳は2500年前に南朝鮮に伝った。
+0
-0
9 岩石(ハンドルネーム RV1PCKhb 返信
7300年前に喜界島が超巨大噴火を起こし、日本全国に灰が積もった。九州南部の薩摩半島・大隅半島・屋久島・種子島等において、そこで作られていた縄文集落が噴火の後無くなっており、人骨が見つかっていないことから、住民がどこかへ逃避したことがわかっている。タミル人は既に全国に広がっており、そこのタミル人はいなくなったが、タミル語だけは残った。志那大陸やアメリカ大陸に渡った人たちもいた。黄河文明は約6800年前、南米エクアドルで見つかった縄文土器は約5500年前である。なお、縄文文明と関係が深かった遼河文明は8200年前に始まった。インカ帝国の皇族は縄文人だったという言い伝えがあり、多くのペルー人は日本人ルーツ説を信じている。
契丹古伝によると、「殷は倭なり」と、大陸最古の王朝と言われる「夏」、その夏を滅ぼしたと言われる「殷」、また中国史では蔑称で記される「東胡」「匈奴(遼河~北東亜平野~西日本発祥)」も、同祖・同族という。大陸の先住民である「殷」の末裔と「漢」との対立こそ、ユーラシア大陸の古代史の真相であるというのが、この『契丹古伝』の核心部分のようだ。古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族(東大神族→その末裔たちが韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛した)は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。『契丹古伝』によれば、のちに東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。また『契丹古伝』は、本州と九州がかつては陸続きであったが、人工的に開削されて海峡となったことや、ゴビ砂漠にはニレワタとよばれる幻の湖があったことなど、超古代の地形の変遷についても特異な伝承を伝える。志那大陸の倭人が築いた夏(紀元前3000年~)や殷(紀元前17世紀頃~紀元前1046年)の時代には反乱が起きたことがない。日本列島だけでなく、環太平洋一帯の人間を倭人と呼び、北九州だけでなく、朝鮮半島、志那大陸東海岸にも倭人はいた。周(紀元前1046年頃~紀元前256年)における春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑=成周へ移してから、周の知事を王に戴く秦が紀元前221年に中国を統一するまでの時代)に難民が周辺国に逃げ込んだ。志那大陸は封建制(中世の日本、ヨーロッパ)の周から専制の秦になり、未だに専制政治が続いている。秦の皇族は日本に渡って秦(はた)氏と名乗り、責任主義だった日本に法治主義を取り入れた。志那大陸では漢が人治主義を取り、未だに人治主義のままである。
+0
-0
8 岩石(ハンドルネーム uaSp8T0p 返信
地中海沿岸のDNAを持つ日本人は氷河期時代にマンモスを追ってツァーリズム(ヨーロッパから極東への東進)を展開した。ロシア人は近世にテンの毛皮を追ってツァーリズムを展開した。アシカの毛皮狩りをしていたロシア人は極東の島で遭難した日本人と出くわした。ハプログループNは北欧からウラル、シベリア、極東まで広がっており、ゲルマン人と遼河文明系匈奴が混血したスラブ人(遼河系ゲルマン人)のひとつがロシアであり、ラテン人と遼河文明系先住日本人が混血した遼河系ラテン人が日本人である。
最終氷河期は中近東とヨーロッパは陸続きだったので、ハプログループDEは西アジアor南ヨーロッパに入った後、DE→D(約6万年前、黒海北岸)、E(6万5200年前、地中海沿岸)に分かれた。ハプログループEはエジプトなどのアフリカ、イタリア、フランス、ドイツなどの西欧、ウクライナなどの南欧、イスラエル、イランなどの西アジア、インドなどに残った。ハプログループD=日本人の先祖(ラテン系日本固有種D-M116.1*・16.6%、D-M125*・12.0%、D-P37.1*・3.9%、D-P42・2.3%、ロマンス諸語)は、黒海北岸(現在のウクライナ、モルドバ、ルーマニアあたり。ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されている)に住んでいた。3万9000年前にイタリアで火山の大噴火が起きた。3万年前頃から、食料となるマンモスを追って東に進み、バイカル湖畔を経由して約2万年前に寒冷化による南下を始め、アムール川、沿海州を通って、氷河期は海面が140メートル低く陸続きとなっていた樺太や北海道(この辺りまでマンモスが生息)に南下した。約1万4000年前、凍った津軽海峡を渡って東日本縄文人となった。ヨーロッパ南部(+南欧・北欧系I-P19・0.4%、ロマンス諸語)→西シベリア南部(+ゲルマン系R-M207・0.4%、約2万7000年前以降、ゲルマン諸語)→バイカル湖畔(+トルコ系C-M217*・3万年前・1.9%、約2万年前、アルタイ諸語)→アムール川(+タタール系Q-P36・0.4%、インディアン語族)→沿海州(+北方ツングース系ウリチC-M86・1.2%)→樺太→北海道(約2万年前、残留組がアイヌ)→東日本(約1万4000年前)と移り住んだ。計39.1%。主に関東に住んでいた東日本縄文人は、3500年前頃、寒冷化に伴い、西日本(人口が東日本の10分の1だった)に広がり、日本海沿岸、太平洋沿岸、東シナ海沿岸、沖縄に移り住んだ。
+0
-0
7 岩石(ハンドルネーム szJ4bbmO 返信
最終氷河期(7万年前~1万年前)にはユーラシア大陸、北東亜平野(現在の黄海・東シナ海・志那大陸東側沿岸等の大陸棚)、九州、四国、本州は陸続きであり、4~5万年前にK-M214が北東亜平野から日本にも広がり、3万4600±4700 年前にK-M214→NO、N、Oに分かれた。最初の日本人(約2万8300年前に古長江で旧O2a系と旧O2b系に分かれた旧O2b系日本固有種O-47z・22.0%(もしくは25.1%)、日本固有種C-M8・5万年前・5.4%、NO-M214*・2.3%=福岡県3.8%と徳島県5.7%、N-LLY22g・1.2%、N-M178・0.4%、ウラル語族)が北海道を除く日本全国に住んでいた。計31.3%。Nは東北に多く、岩宿時代、4万年前(世界より2万年早い)に磨製石器を発明した。先住日本人には古長江系のO-47zと遼河系のNO-M214*、N-LLY22g、N-M178、C-M8が混在していた。
縄文文明(紀元前1万4000年~紀元前1000年頃、ウラル語族)と遼河文明(紀元前6200年前~紀元前500年頃、ハプログループN、ウラル語族)は関係が深かったことから、遼河文明人も縄文文明人の金髪碧眼を受け継いだ。遼河系先住日本人(ハプログループN、ウラル語族)=遼河文明(ハプログループN、ウラル語族)系匈奴であり、日本の古墳は匈奴由来である。縄文時代(紀元前1万4000年から紀元前1000年頃まで)、黄河文明人(紀元前7000年~紀元前1600年、ハプログループO2=旧O3系統、シナ・チベット語族)に侵略された長江文明人(約2万8300年前に古長江で旧O2a系と旧O2b系に分かれた旧O2b系O-SRY465*・7.7%、紀元前1万4000年頃~紀元前1000年頃、ベトナム系言語)が沖縄の陸橋を渡って逃げてきた。ナウマンゾウが住んでいた瀬戸内海は約1万年前に海水が入り込み、陸地から内海に変わった。日本列島がステップ気候から森林に変わると、太平洋の島々(最南端はパラオ、グアム)の人々(約2万8300年前に古長江で旧O2a系と旧O2b系に分かれた旧O2a系O-M95*・1.9%もしくは0.8%)も日本列島に移り住み、その言語(オーストロアジア語族)も取り込まれた。旧O2a系O-M95系統は中国南部、東南アジア、インド東部など、特にオーストロアジア語族に属す言語を話す民族に多い。計9.6%。オーストロネシア語族のO1a(旧O1)も1.3%(もしくは3.4%)いるという統計もある。オーストロネシア語族は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。これに先住日本人、北から来た者を合わせると日本人の80.0%になる。
志那大陸は3000年前から春秋戦国時代となり、大勢の華北人(旧O3系)が周辺国に逃げたが、そのうち東シナ海を渡って日本に逃げた華北人(黄河文明系の旧O3系O-LINE1・3.1%、O-M122*・6.6%、O-M134・10.4%、シナ・チベット語族)は日本人の20.1%(もしくは19.1% or16.7%)にも及んだ。華北人(旧O3系)が東シナ海を渡って北九州から侵入し、主に瀬戸内海沿岸に住み、在来の日本人と混血した。
+0
-0
6 岩石(ハンドルネーム ZTEfX1wP 返信
旧唐書「倭国日本伝」には「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす」「あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。北朝鮮は糞まみれの穢族と呼ばれる人たちが住んでおり、南朝鮮と北九州に倭国があり、近畿に日本国があるとされている。ちなみに、志那は「南朝鮮の倭寇が一番質が悪かった」とその歴史書に書ている。倭人は中国東沿岸地域、朝鮮、日本に広がっていた。また、倭人は更に遡ること十世紀、インドに住んでおり、隼人族をタミル人とする説もある。倭国は南朝鮮と北九州である。
日向南西部の山岳地帯=宮崎県西諸県郡高原町(島津庄=都城市の近く)で生まれた神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)は、紀元前667年に兄3人と共に南九州を出発し、隼人族(鹿児島県、宮崎県南部)を中心とする九州南部(鹿児島県、熊本県、宮崎県)の熊襲を伴って、大分から船出して、瀬戸内海沿岸の華北人に稲作の技術指導をしながら東征した。3人の兄が亡くなったが、奈良県橿原市で末子相続(母系家族であるフン族や縄文人の慣習→モンゴル帝国も末子相続だった)により初代天皇に即位し、神武天皇となった。大坂湾の2700年前の地形を知っていれば日本書紀の記述のとおりだと分かる。誰かさんは日本書紀を否定し、都市伝説ばかり信じているが、朝鮮に都合の良いファンタジー歴史はすべて嘘である。日本国=大和(yamato)はタミル語で「日の登る東の国」という意味である。なお、神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)の母も祖母も奄美大島の人間である。
天皇を警護する隼人族は若狭(福井県)などの北陸に強制移住させられた。
神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)は日本の初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)。諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さぬ)。『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。日本統一前の天皇家は縄文中期頃には成立していた。
神武天皇後の天皇も武力だけでなく、稲作のための水路を作るなどの経済政策、ユダヤ王同様に祭祀王として日本神道=イスラエル神道に基づき統治した。神武天皇は全国から少しずつ玄米を集めて蓄え、災害地や不作の地に備蓄米を配給した。これが建国の詔になった。
日本国は、古代に山陰地方から関東地方にかけて住んでいた毛人(もうじん)=地中海沿岸系日本人、倭国及び高句麗を服属させた。大和朝廷は鉄を産出する出雲を皇太子が侵略したが、それを正当化するために国譲り伝説を作った。魏・呉・蜀の三国時代、高句麗は蛮族=盗賊団が跋扈し、南朝鮮の馬韓、弁韓、辰韓は争いが絶えず、国のていをなしていなかった。日本だけが国としてまとまっていた。志那からの疫病が朝鮮を経由して日本で蔓延したことから、大和朝廷は大宰府で徹底的に検疫した。志那からの疫病に対する防波堤として、三韓(新羅、百済、高句麗)という自治政府を作らせ、日本国の配下においた。三韓(新羅、百済、高句麗)のうち新羅が反乱を起こしたので、2世紀ごろ、神功皇后が三韓征伐(主に新羅成敗)を行った。魏はこれを称して倭国(朝鮮南部と九州北部)大乱と呼んだ。平安時代に東北の蝦夷=匈奴、明治以降に北海道のアイヌ=地中海沿岸系日本人等を服属させた。
+0
-0
⬅️戻る
次へ➡️